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2009年04月 アーカイブ

2009年04月01日

かえし

かえしとは「煮かえし」の略された物で、蕎麦汁(そばつゆ)に使われる調味料。このかえしを出汁で割って蕎麦汁が作られる。また、ラーメンにおいてもスープで割る前のタレの事をかえしと呼ぶ事がある。

蕎麦のかえし [編集]
醤油に砂糖、味醂(場合によっては日本酒など)を加え、しばらく寝かせる事によって作られる。寝かせるのは、醤油の角が取れ味が熟成される為である。基本的に材料は一緒であるが作り方によって3種類に分けられる。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

本かえし - 加熱した醤油に砂糖、味醂を加える。
生がえし - 砂糖、味醂を加熱して水飴状にして、非加熱の醤油に混ぜ合わせる。
半生がえし - 少量の醤油を加熱して砂糖、味醂を加えた物を非加熱の醤油に混ぜ合わせる。
店毎に作られ、出汁以上に店の味を決定付ける物であることから、店の秘伝とされる事も多い。なお、つけ蕎麦用にかえしを濃く出汁で割った汁を辛汁(からつゆ)、温かい蕎麦用に薄めに出汁で割った汁を甘汁(あまつゆ)という。辛汁と甘汁で出汁を変える場合もある。

御膳がえし [編集]
かえしにさらに味醂を加え寝かせた物を御膳(前)がえし(ごぜんがえし)または上がえしといい、ざる蕎麦用のざる汁に使われる。上がえしとも言われる様に、通常のかえしよりも濃厚な上級品である。しかし現在ではもり蕎麦とざる蕎麦の違いは海苔だけの店が多く、御前がえしを利用したざる汁を出す店は非常に稀である。

ラーメンのかえし [編集]
元々は醤油ダレの事であり、チャーシューの煮汁を煮詰めた物を使う店がほとんどであった。現在は専用に作る店が多く、作り方も店によって大きく異なるが、基本的には出汁の出る物と一緒に煮詰めて作る。ラーメンの味が増えた事に伴い、味噌ダレ、塩ダレなども含めタレの総称としても使われる。

2009年04月16日

ウイグル

ウイグルは、古代北アジアで活動したテュルク系遊牧民。この民族名称を自称する人々はのちに中央アジアに移動し、15世紀頃まで存続していた。また、この民族名は、20世紀に東トルキスタン民族運動において、テュルク系のオアシス定住民が、1934年に古代北アジア遊牧民の呼称を借りて、自分たちの呼称として採用し、現在に至っている。

本項では主として古代北アジアのテュルク系遊牧民とその直系の後裔である中世中央アジアのウイグルについて主として扱い、近現代の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)のトルコ系オアシス定住民である現代ウイグル民族については「ウイグル人」の項目に譲るものとする。

ウイグルの名が歴史に登場したのは7世紀以前に遡り、中国魏晋南北朝時代の記録に残る高車の一部族、袁紇氏が史料上の初見である。

7世紀から8世紀、突厥と唐が交互にモンゴル高原を支配した時代には、ウイグルは高原北部のセレンゲ川流域に遊牧し、9部族からなる連合体を形成する部族のひとつであった。この集団は中国史料には「九姓鉄勒」(鉄勒九姓、すなわちテュルク語でトクズ・オグス、Toquz Ögüz)と呼ばれ、その支配的部族の名を取ってウイグルとも称された。漢文史料に見える回鶻、回紇、廻紇などの字は、ウイグルの音写である。

ウイグル部族を中心とするトクズ・オグズ部族連合は、745年に突厥第二可汗国を滅ぼしてモンゴル高原に遊牧ウイグル帝国を打ち立て、北方に一大勢力を築き上げた。しかし、この帝国は100年あまりで崩壊した。

遊牧ウイグル帝国崩壊に際し、ウイグル勢力の一部は中国の北辺や中央アジアの天山山脈北東麓に移住した。現在、中華人民共和国領の甘粛省の西部に居住するテュルク系民族のユグル族(裕固族)は、このとき甘粛に移住した古代ウイグルの末裔とされている。

中央アジアに入ったウイグル人はこの地で定住民化して天山ウイグル王国を築き、「ウイグル」(Uyghur)とか「トゥグズグズ」(Tughuzghuz)と呼ばれた。彼らは遊牧の時代からソグド人の影響でマニ教を尊崇したが、中央アジアに入った者は仏教も信仰し、イスラム教勢力と接する中央アジアの一角で独自の文化を築き上げた。

14世紀にモンゴル帝国が勃興するとウイグル王国はモンゴルに服属してその下で繁栄したが、15世紀になると元とチャガタイ・ハン国の間の最前線となって次第にチャガタイ系のイスラム教を信奉するテュルク系の人々の圧迫を受け、やがてイスラム化の波に飲み込まれたウイグル文化は消滅した。

その後、20世紀に至って、かつての天山ウイグル王国と、カラ・ハン朝の支配していた地域にあたる東トルキスタンのテュルク系言語を話すイスラム教徒のオアシス定住民たちの中から、その統一的な民族名称として滅び去ったウイグルの名が再び見出され、1935年に民族名称として採用された。この地域が中華人民共和国に統合された後、彼らの民族名称は中央政府によってウイグル族と公式に定められ、現在に至っている[1]。

遊牧ウイグル [編集]
今日遊牧ウイグルと呼ばれている勢力は、突厥が北アジア・中央アジアを支配した時代に碑文に現れる9部族連合「トクズ・オグズ」(漢文史料では「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)に遡る。この部族連合は、ウイグル(回鶻)部族の首長であるヤグラカル(薬羅葛)氏族が全体を指導したことから、九姓鉄勒全体をもウイグルと称すようになったようである。

8世紀に突厥第二可汗国(第二突厥帝国)が衰退すると、ウイグルを中心とする鉄勒諸部族は連合して突厥と戦い、その勢力を侵食した。742年頃、ウイグルの首長クトルグ・ボイラ[2]は唐へ使者を派遣し、入朝したため、唐は彼を奉義王に封じた。744年には、同盟者であったバスミル[3]の可汗を破り、自ら可汗を称した(キョル・ビルゲ可汗)。唐は、入朝したキョル・ビルゲ可汗を冊立し、懐仁可汗の号を授けている。745年、ウイグルは突厥を最終的に滅ぼし、かつての突厥の本拠地であるオルホン川流域を中心とする遊牧ウイグル帝国を築く。

キョル・ビルゲ可汗(在位744年-747年)の後を継いだモユンチュル(葛勒可汗、747年-759年)は、キルギス、カルルクなどと戦って帝国の領域をアルタイ方面に広げ、また安史の乱に悩まされていた唐に援軍を送って長安の奪還に貢献した。第3代ボグ・カガン(牟羽可汗、759年-779年)は続けて安史の乱に介入し、史朝義の乱に際して自ら中国に出兵し、洛陽を奪還させたが、このときソグド人の信仰するマニ教に出会ってこれに帰依し、高原にマニ教の僧を招いてウイグルにマニ教を導入した。

唐の内乱への相次ぐ介入によって中国と遊牧民の絹馬貿易を拡大することを唐に認めさせたウイグルは、モンゴル高原にバイ・バリク(富貴城)、オルド・バリク(回鶻単于城)などの城郭都市を建設してソグド人や中国人を住まわせ、交易や農耕に従事させて富を蓄えた。

しかし、急速な定住文化の浸透はウイグル社会に混乱を来たし、779年にボグ・カガンが内紛で殺害された。これを機にヤグラカル氏の王朝は弱体化し、795年、エディズ部族出身の宰相クトルグ・サングン[4]に取って代わられた。クトルグ・サングンはヤグラカル氏の王族たちを唐に送り出して一掃し、唐から懐信可汗の王号を与えられた。エディズ部族の第二王朝は、自らをウイグル部族のヤグラカル氏に擬制して王権の正統性を保ったため、擬ヤグラカル政権と呼ばれる。

第二政権も唐との友好的な関係を保って絹馬交易を維持し、繁栄した。しかし830年代後半頃、ウイグルでは連年の自然災害を契機として内乱が勃発し、突如として分裂的状況に陥った。

840年、内乱の最中に北方に住むキルギスの大軍が襲来し、ウイグルの可汗を殺した。これによって遊牧ウイグル帝国は崩壊し、モンゴル高原は4世紀後のモンゴル帝国の登場まで統一政権を持たない時代が続く。

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2009年04月30日

パチャクテク

パチャクテク(英:Pachacuti、ケチュア語:Pachakutiq=世界を震撼させる者、世界を造り変える者、?-1471年、在位1438年-1471年)は、クスコ王国の9代サパ・インカ(皇帝)(上王朝4代目)である。クスコ王国を「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編し、クスコの谷の小王国から南米の文明的な範囲のほぼ全体にインカの統治を広げることとなった3代続く征服の時代を始めた。父は8代インカ皇帝ヴィラコチャ、妻はママ・アナワルキ、子に10代トゥパック・インカ・ユパンキがいる。

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初名はクシ・ユパンキ。多くの年代記作者によると、アンデス山地の中央部を占拠していたチャンカ族から攻撃を受けたときから、彼の経歴は始まった。父帝ヴィラコチャは当初の後継者であったウルコと共にクスコを放棄したが、クシ・ユパンキは防衛するとともに敵を打ち負かし、兄を失脚させ自ら皇帝を名乗った。(数人の年代記作者はこの行為をヴィラコチャの事績であるとしており、混乱している。) 近年の研究では、ヴィラコチャまでは祭祀を司る王族が祭政一致の皇帝であったが、パチャクテク以降は俗権を掌握する王族が皇帝となったとし、この体制変革をパチャクテクによるクーデターではないかと推察する見解が出されている。

治世初期に彼は、現リマ北部からチチカカ湖に至るまでのアンデス山脈一帯にインカの支配を確立した。

1463年、大衆が王族と共にあることを期し、トゥパック・インカ・ユパンキをインカ軍隊の最高司令官に任命した。トゥパックは父が1471年に死亡するまで北方へ領土を拡張し、現エクアドルにまで達した。

その間、パチャクテクは、これまでのクスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。彼が創設した制度のもとで、アポと呼ばれる地方官がスウユ毎に配置され、スウユを支配した。これらの地方官の配下にトクリコクと呼ばれる地域の指導者がおり、各都市、谷、鉱山を運営した。スペインによる征服以前には、各アポの配下に約15人のトクリコクがいたが、パチャクテクが最初に組織した時点では、より少なかったと想定されている。また、権力相互間の監視均衡を図るため、軍隊と聖職者を系列毎に別々の首飾り(官職の標章)を創設した。

また、真に帝国を代表し大都市としての需要を満たすよう、クスコの大部分を設計し直し再建した。各スウユに対応し、各スウユに通じる道路を中心とした地区が設定され、貴族と移民は彼らの出身地に対応する地区で生活した。各地区は2つの二項対立(双分制)の組み合わせによって成立する三分制(セケ・システム)という構造になっていた。これは、全ての権限、空間等を上(ハナン、hanan)と下(ウリン、urin)に分けて考える、いわゆる双分原理によるものであり、下部も更に2分されることにより成立した構造である。皇帝、皇族はこのいずれにも属さない中心部に住んでおり、貴族も家柄が名門であれば名門であるほど、中心部に近い場所に居住した。

パチャクテクは政治と軍事の才能に溢れていたが、後継者選定制度の改良はしなかった。彼の息子は特に争いもなく帝位を継承したが、後の世代では、次代皇帝は内戦に勝つか他者を威圧するかして、地方官、聖職者、軍からの十分な支援を得ることで帝国の支配権を獲得しなければならなかった。

マチュピチュは彼の時代までのものであると信じられている。

パチャクテクはケチュア語で世界を変える者を意味している。確かに彼は小さい小村を、チムー王国と対抗し最終的に取り込めるほどの帝国に変えたのであった。

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